自分が死ぬというのは、身体が動かなくなることである。身体が動かなければ、飲食ができない。飲食が出来ずに生きるというのは、どういうことなのだろうか。十分やり切ったと言える人生は、どんな人生だろうか。自分がこうしたいと思えることをやり切る。それは、日々生きているだけではなく、そこに付加価値を得た人生を選び取ることだ。
徐々に向かってくる死には、恐怖が伴う。恐怖を管理できると、楽になれるのか。恐怖は反応だ。恐怖を管理するには、反応後の対処法を知らなければならない。反応を見つめて行動することだ。まずは深呼吸。呼吸を整えることから始める。そこからである。
身体が動く限りは、精一杯生きていきたい。これが死に抗う方法になる。人はほっといても死んでいく。いつ死ぬか、というだけだ。どこで、どのように、なぜ、は自死でなければ選び取れない。選び取れないのなら、ありたいと思う状況に向けて、今に全力を傾ける。休むことも全力でやる。
そして最後に動けない瞬間が待っている。まわりが悲しんでいる。その姿が自分が死に向かうことをとがめている。自分が死ぬ状況は現実ではなく、頭の中だけで起きている。それは予測だ。人は予測を元に行動する。予測のパターンが現実と近いほど、死を遠ざけることができる。パターンを熟知しておく。熟知しておくことで、死に対して全力で向かっていける。自分の身体は一つである。一つの身体から生み出せる動きは無限であるが、死に対しては一つに集約されていく。動けない瞬間まで予測しておく。
人は死にたがっている。もう人生やり切ったからいいだろうと思うのは、どんな時だろうか。歳を重ねた時だろうか。子供が巣立った時だろうか。人生の中心に仕事を据えるのであれば、どんな仕事が自分にとって有益だろうか。生き続けることが人の宿命だとして、人生やり切ったと言い切れるのだろうか。人は死にたがっているのではなく、全力を引き出そうとしているのではないだろうか、その先には死が待っている。人は本能的に死を知っているが、見て見ぬふりをして、全力で限界を突破しにいくのではないだろか。限界を突破した先には、死が待っているのを知らずに。
日々全力の中にある。
自分が身近でこうありたいな、と思うことを選び取る。便乗するのではなく、自分で選び取る。そして、死と対等に生きていく。限界を突破した先の死は、自分にとって幸福そのものではないだろうか。